第一次世界大戦後、不況から脱出するために大正15年4月15日「国民の半分は男子、半分は女子である。しかし当時産業界で働くのは男子のみでした。
女子に産業界で働ける能力を与えたら、日本の産業の力は倍になるのではないか。」と考え、初代校長長嶋行吉先生は、市内水落町に静岡女子商業学校を開校しました。

 最初は同人教会付属校舎(左)を借りてのスタートでした。赤レンガの屋根と白い壁が特徴の二階建ての洋館です。その後昭和5年3月、市内稲川町に新校舎(右)を移転し、新しい学校の歴史がスタートしました。
 
 
 昭和15(1940)年1月15日12時8分頃、当時小正月で人出が多かったとき、葵区の住宅にて大工の妻が昼食の支度のため、仕事で出た木くずや薪などを
かまどで燃やしてお湯を沸かしていたところ、
強い北西の風で台所の煙突から火の粉が飛んだのがこの災害の原因です。
乾燥した空気と強風によって消防隊の消火が困難となり、鎮火したのは
翌日の16日3時30分頃でした。

焼失町数   
全町焼失47町 一部焼失 38町 計85町

焼失戸数 
全焼  5229戸 半焼 46戸 計5275戸

負傷者 
死者 1名 重傷者 8名   軽傷者780名

死者も出たこの大火事に静岡女子商業学校も校舎の全焼という被害にあい、授業は仮校舎にて行っていました。                
(Wikipedia参照)
 
 

 昭和20(1945)年6月20日、静岡大火から5年。
19日から20日まで 百数十機ものB‐29が市街地を3時間で一万発以上の焼夷弾を落下。

被害 
死者 1900人以上  負傷者 5000人以上
焼失戸数  25000戸以上

これにより静岡大火後に建てた新校舎も被害にあい、3年後の23年に再び新校舎を建てることになった。                                  
(七間町名店街オフィシャルサイト参照)
 

 
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